記紀が正しいとは限らない

 拙者は歴史学者でも考古学者でもない在野の人間ですから、論拠を示すことは難しいのですが、いつか易学を研究し始めて、古法、古説、古書の類はその信憑性を疑ってかかるようになりました。史書文献に至っては原著にあたるのが最も良く、最も危険なのが、伝承もの、翻訳ものの類です。まして、原著であっても敢て重要な点を秘匿したり、割愛して他人には教えないという類のものも存在するので、割り引いて読む注意深さも大切です。

 原著にあたるということは、易学の領域で言えば中国書籍を読むことができなければなりません。拙者は独学で勉強してきたので、我流ではりますが多少読めるようになり、日本の古書の誤りにも数多く気づかされました。最もたちが悪いのは、翻訳ものの類です。翻訳者の専門的な知識と翻訳の技量が低いと、真逆の解釈、翻訳ということもしばしば見受けられます。易学を学ぶ上で最も基本的なテキストとなっている「増刪卜易」でさえ、日本にある翻訳本には解釈の誤りや故意に割愛した部分が多くあります(「増刪卜易」完全版については今後、出版していくつもりです)。最近では、中国易学の大家が記したとする日本版の易学書が高値で販売されています。しかし、その書の内容はというと、中国国内で普通に市販されている易書と大して差がないのです。ましてや、日本版ということで、重要なところが割愛されています。これは由々しき事態でありますが、そのカモ問題に気づいている日本人は至って少なく、被害者は相当多いと思われます。

 近代から現代にかけてそうであれば、昔においては尚さら注意して書にあたるべきと考える訳です。拙者が次に危惧するのは伝承の類です。古来伝承は、神がかり的、意識変容を伴って語られる口述から来ているものが多いです。この伝承は果して事実かどうか、現実のものとそうでないものとを分けて理解する必要があります。「記紀」は多分にこの伝承系に入ります。史実に基づく部分とそうでない部分とを分ける術(すべ)が既に無いので幾つか同時期の典籍を比較検討しながら、史実部分を探るしかないのです。その資料は膨大な数に上りますから、相当の労苦を要することは確かです。

 古事記においても稗田阿礼の口述筆記がなされたそうですが、このクラスの書では、審神者も置かれ、比較検証されているはずです。しかし、伝承口述の場合には内容が史実とかけ離れた、意識の部分に比重がおかれることも多いので、事実と混同しないよう注意する必要があるでしょう。また、それに太安万侶の編纂が加わって、こうした政治的な立場の人間が加わることで内容が歪曲される危険性も十分あるのです。それが意識的でないにしてもありうるということを心得ておくべきです。但し、こうした過程を経て、民を導くことができたからこそ、時の為政者は事象を書に書き記すことの重要性を感じていたはずです。その書を拠り所として社会に秩序をもたらし、民を支配することの正当性を主張できるのであれば、為政者がここに注力することもうなづけるのです。

青川素丸 表参道の父

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