甲骨卜辞の天干紀日法

 干支で日付を記す方法が太古から確立されていたことは驚くべき事実ですが、拙者が注目したのは、甲骨卜辞に「天干紀日法(てんかんきじつほう)」が存在したという事実です。この事実から天干の何が解るでしょうか?中国ではこの天干が人間の生産活動だけでなく天文学と密接に関係していたと考えられています。天文学が重視されたのは、河川が氾濫する時期を預測したり、遊牧民や農耕を行う人たちが季節の変化を把握する必要があったからと言われます。歴史的に甲骨卜辞が発見された商代は既に農業が発達しており、例えば黍、麦、粟、稲などが十分作付けされていました。さらに、天文学や暦法の知識もある程度高い水準にまで達していたと推察できるのです。例えば、甲骨文には日食と月食に関する記録、新星や恒星に関する記録もあったと言います。つまり、人類がある特定のエリアに定住し、そこで生産活動を行い始めたことがきっかけで、天象や気象(気候)の定点観測も出来始めたのです。これが暦という発想が生まれる背景と考えるのです。また、商代の甲骨文には、以下のような天干で日を表記するものも見つかっています。 

   (例) 辛至壬、其遘大雨?(《粹》六九八)  

       戊子卜、于来戊用羌?(《合集》二二零四五) 

       自乙至丁、又(有)大雨?(《掇一》三九五)

       乙卯卜、羽(翌)丙雨?(《前》七•四四)

 ある考古学者は、天干紀日法が干支紀日法よりも早い時代に成立していたことから、干支紀日法は天干紀日法の名残りではないか?と唱えます。また某学者は《山海経(せんがいきょう)》にある神話を持ち出し、神話は商代の干支紀日の元になる原始的な暦(天干紀日)を写したものであって、今日まで語り継がれてきたのだろうと考えます。ただこの説を採用すれば、その神話に記されている十干の10という数がそもそも何に由来するか?神のみぞ知ることになってしまうし、地支よりも天干が先の時代に出現した理由についても議論を尽くさなければならないと思います。拙者がこれらの発掘された甲骨文から読み取るのは、天干表記とその利用が商代よりも早いという事実だけで干支紀日法よりも先か後かまでは判らないということです。 そもそも、最初に形成された「天干」は果してどのように生まれたのか?通常、多くの学者は太古の人類が最も簡単に数えられる数は、両手を合わせた10本の指に対応した10と安易に考えます。これはわかり易く誰をも説得させることができる理由かもしれません。しかし、形態学的にはそうであっても、だからすぐに暦学や易学などの理論に組み込まれる理由にはなり得ません。そこで、甲骨文の中に既に「旬」の概念が存在し、“︱”という字で表現されていた事実を合わせ考えてみましょう。

 拙者は甲骨文に旬の概念が文字という形で表象化されるには、かなり以前から旬の概念が日常生活に根ざし、かつシンボル化されなければならない程、思想の上位概念に位置づけられ、また利用されてきたのではないかと考えます。この旬を表す記号“︱”は10日という期間でしたが、これに循環の意味を表す“⌒”(弧)が加わり、1~10までの循環(一周)=10日周期=「周期リズムを有する旬」の概念が成立した?と考えられ、これは中国で一つの学説にもなっています。確かに生体・人体の形態上5、10、20という数は指の数から導くことができますが、12という数は同様には見い出せません。ですから非常にプリミティブなレベルで周期という概念が形成される際、やはり10の周期は発想において無理がないと思えます。つまり、これが10日=旬の概念を形成するイメージの根底にあることは、疑いなさそうです。5の数は片手の指を折っていけば5本の指で足ります。では5進法が適当かというと、先に折った指を逆に伸ばす方が合理的です。指を折る「陽の5」と、指を伸ばす「陰の5」で10です。周期とは必ず基点に戻るサイクルがあるから周期になるのです。そう考えれば、やはり10や20という数字は、形態学的にも説明と都合がつき易い数です。

 話を元に戻しますが、天干を序数の概念として定めただけで全てが納得できる訳ではありません。この天干の起源と意義を探る必要があります。どうして5でなく10になったのか?20でなく10になったのか?そこに隠されたパワーとシンボル的意味、また宇宙の規律とは?正に人類不朽の命題がそこにあります。商代の暦は太陰太陽暦でした。これは1ヶ月を30日として計算していたので、これを3つに分けて一ヶ月=三旬です。勿論、毎旬=10日となり、現在の曜日と同じような感覚で用います。毎月一旬、二旬、三旬を経て翌月となります。このように考えれば、「旬」が一つの単位として機能する役割が見えてきます。今現在が、月のどの辺に当たるのか?が即座に判別できれば、使い勝手の良い暦となるのですが、旬は正にそのような存在であります。現に私たちは上旬、中旬、下旬という表現を今も用いています。このように旬は利用頻度が高くて、応用範囲も広いことから、使い続けられているのです。

 さて、出土した甲骨文には三旬式、六旬式2種類の干支表がありました。つまり、三旬式は甲子に始まって癸巳で終わります。また六旬式は甲子に始まり癸亥で終わります。 尤も月を主体に考えれば三旬ですし、日のサイクルを考えれば六旬(60日)がクローズアップされます。要は月の単位か日の循環かの違いだけです。いずれにせよ、10という数は暦の中では非常に重宝され、かつ古くから用いられてきました。しかし、なぜ10数でなければならなかったのか?60干支表が意味することは一体何なのでしょうか? この命題の答えは既に拙者が解明したので、またしかるべき機会に後述したいと思います。

#天干の起源 #天干 #干支 #紀日法 #暦 #暦法 #60干支 #月山仁 #月山易相 #暦の暗号 #甲骨卜辞 #商代 #天文学 #甲骨文 #日食 #月食 #新星 #恒星 #天象 #気象 #気候 #定点観測 #表象化 #旬 #シンボル化 #思想 #循環 #10日周期 #学説 #指の数 #地支 #進法 #陽 #陰 #サイクル #周期 #形態学的 #序数 #太陰太陽暦 #甲子 #干支表

青川素丸 表参道の父

東京 青山・表参道の発祥! 易学中興の祖! 【青川素丸】 数十年の研究を経て驚くほどの的中率に 易学を蘇らせた! 未来を預測する有名占い師!! 【表参道の父】 青川素丸 AOKAWA SUMARU 音声SNS「clubhouse」の占い部門で世界最大の 「占いCLUB」創設者