日本書記の暦史
日本の書に「暦」の記述が初めて現れるのは、《日本書紀》の欽明天皇(きんめいてんのう)の治世(ちせい)十四年夏(553年)六月の条(巻十九)です。「六月。遣内臣闕名。使於百濟。・・・(一部割愛)別勅醫博士。易博士。暦博士等。宜依番上下。今上件色人正當相代年月。宜付還使相代。又卜書。暦本種種藥物可付送」。意訳すれば「内臣(うちのおみ)を使いとして百済(くだら)に派遣し、医博士、易博士、暦博士らが交代時期を迎えるので代りの者を遣(よこ)すように。卜(ぼく)書、暦本、種々の薬物を送るように」という意味になります。つまり、この時代、医、易、暦が国家にとって重要な学問であったことが伺えます。同様に「日本書記」には、「二月。百濟…(一部割愛)…五經博士王柳貴代固徳馬丁安。僧曇惠等九人代僧道深等七人。別奉勅貢易博士施徳王道良。暦博士固徳王保孫。醫博士奈率王有悛陀。採藥師施徳潘量豊。固徳丁有陀。樂人施徳三斤。季徳己麻次。季徳進奴。對徳進陀。皆依請代之」。と記されています。つまり、先の翌年2月、百済は日本の要請を聞き入れ、五経(ごきょう)博士(はくし)・王柳貴(おうりゅうき)を固徳馬丁安(ことくまちょうあん)と交代し、僧曇恵(どんえ)ら九人を僧道深(どうじん)ら七人と交代させ、さらに、別の勅(ちょく)によって、易博士・施徳王道良(せとくおうどうりょう)、暦博士・固徳王保孫(ことくおうほうそん)、医博士・奈率王有陵陀(なそつおううりょうだ)、採薬師・施徳潘量豊(せとくはんりょうふ)、固徳丁有陀(ことくちょううだ)、楽人(がくにん)・施徳三斤(せとくさんこん)、季徳己麻次(きとくこまし)、季徳進奴(きとくしんぬ)、対徳進陀(たいとくしんだ)を奉じ、皆、要請によって交代したとする記述です。この記述からわかることは、中国発祥の暦学は朝鮮半島を経由し、易学や医学などと共に日本に渡ってきたという史実です。
さて、私が《日本書記》の記述で注目したいのはこれら博士の記述されている順番です。つまり、易、暦、医という順こそが重要なのです。この当時、恐らく易学が最も重要な学問であり、次にその基礎となる時間概念を定義する暦学があり、この二つの学問を基礎に人体について預測を行う応用として医学が位置づけられていたと推察できるからです。
そして時代は下り、推古天皇の治世十年に百済から観勒(かんろく)が来朝しました。
「冬十月。百濟僧觀勒來之。仍貢暦本及天文地理書。并遁甲方術之書也。是時選書生三四人。以俾學習於觀勒矣。陽胡史祖玉陳習暦法。大友村主高聰學天文遁甲。山背臣日並立學方術。皆學以成業」と《日本書記》には記述されています。これは観勒が暦本、天文地理書、遁甲方術(とんこうほうじゅつ)の書を日本に伝え、この時にも暦学とそれに関する書が日本に伝来していたことを窺い知ることができます。この時、陽胡史(やこのふひと)の祖(おや)玉陳(たまふる)が暦法を習得し、また大友村主(おおとものすぐり)、高総(こうそう)が天文遁甲を学び、山世臣(やましろのおみ)、日立(ひたて)は方術を学んだと言います。結果、日本で推古天皇の時代に暦が日本で初めて使用されることになるのです。
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