始用暦日
「しようれきじつ」と読みます。観勒が伝えた暦法を玉陳(たまふる)が習得したということは、頒暦(はんれき)の編纂まで日本で可能になったことと類推できます。この暦法とは勿論、百済の元嘉暦(げんかれき)です。そして惟宗允亮(これむねのただすけ)の著わした《政事要略(せいじようりゃく)》巻二十五「年中行事 十一月の一 御暦奏条(ごりゃくのそうのじょう)」によれば、「儒伝云。以小治田朝十二年歳次甲子正月戊申朔。始用暦日」とあり、小治田朝(推古天皇治世十二年)「甲子(かっし)」年から暦が始まったという「604年説」が定説となっています。これは604年が「上元(じょうげん)甲子一白」に当たって切りが良いこと、政事の始まり天皇即位の年を辛酉(しんゆう)年に合わせることができるなど、諸々の理由づけが可能なことから作為的に決められたと考えられています。ここで「十二年正月朔」は実は《日本書記》の戊戌(ぼじゅつ)が正しく、《政事要略》の戊申(ぼしん)が誤りと一部研究では考えられているようですが、このことを理由に内容全てが誤りとまでは言えないことから、今ではやはり604年説が有力となっています。その後になりますが、持統天皇治世四年(690年)宋の何承天(かしょうてん)が編纂した元嘉暦がそのまま日本の暦としても正式に制定されました。しかし、次第に日本の実情と合わない点が出始めたため、文武天皇の治世元年には儀鳳暦(ぎほうれき)、さらに、淳仁(じゅんにん)天皇の天平(てんぴょう)宝字(ほうじ)七年(764年)には唐の大衍暦(たいえんれき)、清和(せいわ)天皇の貞観(じょうがん)三年(862年)には唐の宣明暦(せんめいれき)が採用されて、その後約820年に渡って漢暦(かんれき)がそのまま使用されることになりました。もっともこの間、中国においては数多くの改暦が行われていたにもかかわらず、日本へは、その改められた暦が全く取り込まれない状態が続いたのでした。古来日本の暦の流れは決して科学的かつ順風であったとは言えないのです。
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