和暦の概念
二倍年暦についての反論もあります。つまり、日本の暦がすべて中国のコピー版であると考えるのは如何かとする学者らです。日本では古来「音」によって言葉が成り立ち、「年」という漢字は「トシ」の音と結びつきました。民俗学的には「トシ」の概念は先の春と秋の2点間のインターバルであり、正に「春の農耕開始」から「秋の収穫」までの農業の期間を指すと考えられています。そして、柳田國男によれば、「トシ」とは稲作の一期を画す言葉であり、原義は「稔・収穫」であると。トシの循環は稲作の初めと終わりに結びつけていたのではないか?としています。但、この場合、農閑期はトシの範疇に含まれず、またトシは循環を描いていません。そういう意味において、自然の中に実り(稔り)をもたらす神々を見出し、崇拝してきた和暦の精神性は暦というよりも、歳時記の中へと引き継がれていると考えるべきです。なので、中国から植入された天文知識を基礎とする季節の「循環」思想は、古来日本の「トシ」の概念とは一線を画していたと、拙者は思うのです。
では、四季という概念は和暦にはなかったのでしょうか?折口信夫(おりぐちのぶお)によると「ハル、ナツ、アキ、フユ」は古代日本において宗教性を宿した言葉で、元々祭りの名前だったものが暦法の伝来によって転化し、四季を表すようになったと言います。折口信夫は《ほうとする話》の中で祭の起源を次のように説明します。「ハルまつりからフユまつりが岐(わか)れ、フユまつりの前提がアキまつりを分岐した。さらに、陰陽道が神道を習合しきって後は、フユ祓えよりナツ祓えが盛んになり、それからナツまつりが発生した」と。
さらに、《大嘗祭(だいじょうさい)の本義》では「一夜のうちに、秋祭り・冬祭り・春祭りが、続いて行なわれたものであって、歳の窮(きわ)まった日の宵のうちに秋祭りが行なわれ、夜中に冬祭りが行なわれ、明け方に春祭りが行なわれるのである。……これが後に、太陰暦が輸入せられてから……暦法上の秋・冬・春が当て嵌(は)められて、秋祭り・冬祭り・春祭りとなり、さらにその中に夏祭りが、割り込んできたものと思う」と記されています。これに従うならば、中国の「四時」に対応する「四季」の概念は、元来日本には無かったと言わざるを得ません。中国暦法に備わった「四時」の言葉の起源が、日本の神々を柱とする祭にあったとしても、実はその概念自体が異なっていました。年とトシの違い、さらに年を4つに分ける「四時」の発想は、正に「天体の循環」からの着想であり、恐らく自然の中にある神性からは生まれ得なかったのでしょう。これは日本人の発想が貧弱だったからではなく、事象の捉え方の問題であり、心性の豊かさに重きを置く古来日本人の認知構造よりも、天文と時間の関係性に重きを置いた中国人の認知構造の方が、より暦の発想に近かっただけの話なのです。
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